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2024/10/29

【特別寄稿】:講演会「山本有三が描こうとした近衞文麿像」に際して

2022.4.5 UP

2022.4.5 UP

 

 作家・山本有三氏[1887-1974]の没後50年という節目にあたる、今年(令和6年)。その死によって未完の絶筆となった書籍「濁流※」が刊行されて半世紀となります。

 

※「濁流」について

長年の緻密な調査や構想の末、昭和48(1973)年、山本氏は85歳にして「濁流」を毎日新聞で連載。戦後、昭和24(1949)年に小説「無事の人」を発表して以来、20年以上ぶりとなる新作の発表でしたが、翌年に亡くなったことで、未完の絶筆となりました。

文麿公を題材に、昭和19年7月という『緊迫した戦時下の情勢』を描いた作品です。近衞文磨と近しい関係性だったからこそ、事実を書き記す。それが同時代に生きたものの「義務」と言い残したと伝えられています。

 

 近衞文麿の歴史的な評価が様々に存在する中、かねてより親交の深かった有三氏が文麿の真実を語るべく筆をとったのが「濁流」です。

 

 有三氏は、戦争終結をめぐって複雑に絡み合う昭和史の一幕を描き出す本作をもとに、近衞文麿像を改めて問うたのです。

 

 二人は、東京の第一高等学校(旧制一高)の同級生で、卒業後は進路を異にしたことから接点を欠いたものの、文麿の首相就任以降は重要な声明文の作成を有三氏に依頼され、1944年には文麿伝を執筆するよう依頼されるまでの関係となります。

 

 有三氏の没後50年という節目に際し、三鷹市山本有三記念館では、企画展「山本有三没後50年『濁流 雑談 近衛文麿』-燃ゆる創作への想い-」(2024年 9月14日~ 2025年 5月11日)を開催。さらに関連企画行事として、近衞文麿の曽孫であるNPO法人七五理事長・近衞忠大の特別インタビュー(館報29号)や、近衞忠大による講演会が行われました。

 

 今回は、2024年10月6日の講演会「山本有三が描こうとした近衞文麿像」に参加された歴史学者で七五会員でもある世川祐多博士に寄稿頂きましたルポルタージュを掲載します。

はじめに

近衞忠大講演会

「山本有三が描こうとした近衞文麿像」

ルポルタージュ

世川祐多

講演前、忠大氏は会場の後ろで私蔵の文麿公の御著作や古い関連書籍を並べておいでであった。来場された方々は、お姿というよりお顔からして、その方が近衞忠大氏であると気づいたようであった。

私蔵している近衞文麿著作や古い関連書籍

こうして、ご自分が講演される直前まで、ご自身で動き回られて用をこなされるところが、人を遣ったり指図するのが御得意とはいえない「忠大氏らしさ」である。仮に会ったこともない人が、現代のお公家様を雛人形の如き世界観で浮世離れした存在であると考えているとすれば、いささか期待はずれの姿であるかもしれない。山本有三氏が「彼は、確かに貴族に相違ありませんけれども、近衞の中には、庶民と共に、という考えがあったことは確かです。」と評した文麿公に相通じそうな御姿である。

 講演に先駆けて「研究者ではないから、夏休みの自由研究ぐらいの気持ちで臨ませていただきます」というようなことをソフトに仰られた。これは準備もせずに本番に臨み、あらかじめ逃げを打っているということではなく、常に研究者やプロフェッショナルを尊敬され、「自分は研究者ではないから登壇するのは烏滸がましいが、発表させて頂きます」という御姿勢であり、聴衆が肩肘を張らないよう柔らかな雰囲気で物事をテイクオフされることを好む忠大氏の流儀である。ちなみに御口調は、滔々と大言壮語する弁士的ではなく、朝議で落ち着いてお話をするような雰囲気である。

 冒頭、文麿公がアメリカのタイムズ誌の表紙に二度も載った人物であることや、直近の尊属の略系図を使われての近衞家の紹介があった。その上で、山本有三氏と近衞文麿公の略歴をシンクロさせながら、二人の足跡を追っていかれた。有三氏は、宇都宮藩の足軽の家の出で、父は栃木で呉服商に転身しており、公とは幼少期から見てきた世界が違ったことに思いを馳せながらも、この二人は東京の旧制一高で邂逅し、その後接点を欠きながらも、結果的に近衞内閣でいくつかの声明文の作成を任され、文麿伝を執筆するよう本人から依頼されるに至る関係性となった。作成されることがなかった声明文では、バックに軍人の参加があったらしいが、文麿公から有三氏に依頼された東條英機首相暗殺の声明文があり、ここには忠大氏の御外祖父にあたられる三笠宮崇仁親王殿下も何らかの形で御関与遊ばされていたというお話であった。『濁流』には高松宮宣仁親王殿下が反東條側の御神輿として担がれていたことは記されている。

 

 これに際し、三笠宮大殿下が、南京で日本軍の軍紀が乱れていることを御憂いになられ、軍内部で軍紀粛正を図る集会などを企図されたとお話になられた。ここは拝聴した全くの筆者の意見ではあるが、歴史を後から見たいように見たり、恥ずべきような歴史に蓋をすることや修正することはならないと、歴史学者でも在らせられた大殿下の御話を御初孫から聞けることで教わった気がする。

 

 また、忠大氏の一貫した歴史観でもあるが、講演でも通底していたのは、不景気などを含めた「当時の空気感」をいかに斟酌するかということであった。NHK勤務時代、忠大氏が関わられた番組「真珠湾への道」で、長野の戦争体験者に聞き取りをされたお話が挟まれた。当時、日本の貧しい農村では、貧困の小作農らの余剰人口の供給先として満蒙開拓が募られ、「満蒙に行けば一攫千金が狙えて、土地も食べ物もすぐ用意できる」との夢のような口上で煽動する熱を帯びた青年たちがあり、そうした満蒙への膨らむ妄想とは裏腹に、実際に入植すれば、現地で耕している中国人から土地を奪わざるを得ず、奪ったとてそう簡単には農業が捗るわけではなかったそうだ。こうした時代背景のご説明があった。当時の日本

には貧困と、その反動としての大陸への野心や熱気が人々の中にあったのだろう。

 

 アラン・コルバンの『においの歴史』という歴史書があるが、史料からは実証し難くも、確かに存在したその時代時代の空気感というものがあったはずで、目下グローバリズムの反動として止めようにも止められない排他的な「旋風」のようなものが国際社会にあるように、文麿公が呑まれた「濁流」の濁りや流速を測るような歴史への眼差しが肝要であると、忠大氏に教わっている気がした。

 

 他には、文麿公の遺された陽明文庫の動画や文麿公ご自身の記録映像をお見せくださった。また、文麿公の御長男・文隆公が進学した米国プリンストン大学のPマークのセーターを着てゴルフをするシーンもあったが、プリンストン大学ゴルフ部長も務めた闊達で磊落そうな文隆公の御姿は、文麿公とは対照的である。動画にある文麿公のゴルフのスイングが「滑らかでない」と評されて、笑いも起きていた。

 

 文麿公は、のち東京大学史料編纂所の教授になる御次男・通隆先生は父・篤麿公を意識してドイツの大学に進学させる予定であったというお話があった。文麿公としては、子息には海外で経験を積ませ人的ネットワークを構築させる教育プランがあったそうだ。

講演の最後に質疑応答の時間が用意されていた。男性のご参加者から、「藤原鎌足や不比等の子孫であることを意識されておられるでしょうか」という面白い質疑があった。忠大氏は、常時意識するようなことはない旨を仰ったが、後で、「文麿が藤原の印鑑を沢山持っていたことを言えばよかった」と反省されていらした。

 

 文麿公は、御自身が藤原氏であることを意識されておられ、道長公の『御堂関白記』も収められる陽明文庫をわざわざ京都の宇多野の山にお造りになられた。陽明文庫の動画の美しさに惹かれた女性の方から、「どこで動画を見られますでしょうか」という質問があり、杉並区の公式YouTubeサイトで見られるとのご回答があった。

「陽明文庫 千年のタイムカプセル」 杉並区公式チャンネル

https://www.youtube.com/watch?v=2zP8C7fULVE

 陽明文庫は一般公開はされていないため、グループで申し込まなくてはならないが、ぜひ見学されたい旨を忠大氏は語りかけられた。「德川家のような甲冑や刀剣という派手なものはないですが」と仰せられたが、平安以来の歴史史料を静かに衞ることを意図し実行されたのは、文麿公である。

 

 陽明文庫のお蔵は、形容し難い独特の樟脳のにおいを漂わせているが、これは文麿公の最晩年から今日まで染み込んだ香りである。こうして近衞家は、京都とは今も尚ご縁があり、京都の方々からは、「出て行ったきりの公家ではなく、ちゃんと定期的に帰ってきてくれる公家」という評価をされているそうだ。

 

 鎌足公が藤原の氏と朝臣を賜姓されて千四百年、基実公が近衞家を立てられて千百年ばかりが経った。社会や文明が変わっても、絶やさないこと、絶えないことがいかに畏れ多いことか。世界的な人類史においても近衞家は稀有な家系であるが、その当主のお一人文麿公はその中で、あるお役目を背負うべくお生まれになられたのかもしれない。『濁流』の中の「黙」である。

 

 忠大氏はスライドで「黙」と揮毫された文麿公の色紙をお見せくださった。そして文麿公がA級戦犯指定を受けた際に、娘の昭子氏が「嫌な予感」を感じて父が軽井沢の別荘にいると思い急行されたが、そこはもぬけの殻であり、書斎の机の上に『死による解決』という類の本があったことで胸騒ぎが襲ったというお話をされた。

 

 これは講演では触れられていないが、文麿公の御詠である。戦時中の御心中を察するに余りある、寂しく暗い「黙」の字を書き付けられ、物哀しい御詠を詠まれ、最終的に死による解決を選ばれた、人間らしい文麿公の、その人間らしさや実証しうる限りにおける歴史的真実や人物像が少しずつ解明されていくことを願わずにはいられない。

国の重荷 背負ふ身なれと 父のみの 父なるわれは 悲しかりけり

 少なくとも山本有三氏はその手がかりを遺して下さった。小説家故に近衞文麿伝がフィクションと思われかねないと前置きしてまで、あえてこれを『濁流』と名付けた。煮え切らない文麿公の性格を記しながらも、家庭的な父であり、貴族でありながら護衛巡査の子の雪ちゃんのお馬さんになるようなごく普通の感覚も持ち合わせ、大本営発表で歪曲された偽の真実を伝えられる国民を気の毒に思う「人間近衞」の叙述に腐心している。貴族中の貴族であるが故に「浮世離れした公家」と頭ごなしに決めつけた設定で、何も知らない批評家が近衞文麿を論じることを制してもいる。ここに老体でありながら精力的に調査を積み重ねて文麿伝を遺そうとした有三氏の実証歴史家のような魂が見られる。

 

 『濁流』の「創作ノート」はまさに歴史家の史料集めさながらで、「近衞の悲劇「英米の平和主ギを排す」と叫んだ彼は30年後英米ソに倒される。」といった批評はまた、山本有三が「アングロサクソン主導の国際秩序やその欺瞞を論文で批判した近衞文麿が、アングロサクソンとソ連に殺された」という意識を持っていたという歴史史料にもなっている。

 

 為政者としてはシビリアンコントロールがないがためになす術がなかった「悲しかりし父」近衞文麿。有三氏が、学習院に行けたのに一高をわざわざ受験して実力で合格した点を評価し、留学経験がなくとも英語を流暢に話された事実をして馬鹿な訳はない。無能だから何もしない、何もできないのではなく、どれだけの人物であっても「濁流」に呑まれざるを得ないアンニュイな昭和の初頭に「濁流」に呑まれ、衞るべきものを衞るために「黙」って死んだ同窓生近衞文麿のことを、有三氏は「それが、同時代に生きていた者の、義務じゃありませんかね」と書きながら中途で逝かれた。

 

 有三氏が亡くなって五十年、戦後八十年を経て、文麿公が「黙」し、有三氏が書けなかった部分の紐解きが、少しずつしかし確実に動き出したということをこの講演会は感じさせた。漸くその扉を開いたのは近衞忠大氏であった。御母殿下御臨席のもと、丁寧かつ謙虚に歴史の扉を開けられた。会場には、有三氏の御孫娘様もいらした。文麿公と有三氏の絆や、公が氏に自伝執筆を依頼した意味が時空を超えて残っている。

 

 近衞文麿公、昭和二十年十二月十六日に五十四歳と二ヶ月と四日で薨去。娘昭子氏をして瓜二つと言わしめた御曾孫近衞忠大氏、講演会当日五十四歳二ヶ月と十八日。文麿公が歩まれることが叶わなかった時間軸に突入されたばかりである。この年の瀬の公の御命日ごろには荻外荘の復原も叶う。「黙」の解明はこうして始まる。

 

脚注:近衞文麿が山本有三に依頼した声明文

1937年 第一次近衞内閣 声明文

1940年 ルーズベルト会談 声明文(幻に終わった和平会談)

1944年 東條英機 暗殺計画 声明文

 

文責:世川 祐多

フランス国立東アジア文明研究所(CRCAO),ポストドクター

パリ・シテ大学博士

 

 

「山本有三氏が描こうとした近衛文麿像 ー語られない近衛文麿像を紐解く」

日時:2024年10月6日(日)14:00-15:30

主催:公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団/三鷹市

共催:特定非営利活動法人 三鷹ネットワーク大学推進機構

会場:三鷹ネットワーク大学

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