2023/6/1
【磯田 道史|歴史学者】
文化の継承や創造に関わる方々をお招きして、お話を伺う特別企画「語らひ人」。
今回は、歴史学者の磯田道史先生を京都・陽明文庫の虎山荘にお招きし、NPO七五近衞理事長の曽祖父・近衞文麿(1891 - 1945年)の祖父で、幕末から明治初期を生きた近衞忠房(1838-1873)の手記について、じっくり、熱く、解読していただきました。
目次
1.近衞家から読み解く幕末の風景
2.近衞家の親子文通
3.文化人・近衞文麿
4.現在の近衞家
5.今後の文庫保全
近衞家から読み解く幕末の風景
近衞:磯田先生が一番興味があると仰っていた近衞忠房の日記が出てまいりました。忠房の父・忠熈(1808-1898)については、幕末から明治に掛けて長生きをした当主で、その足跡を見聞きしますし、たまたま、私と同じ「ただひろ」なので親しみを感じております。でも、息子の忠房は明治6年に36歳で早逝してしまっているので、文麿の曽祖父という位の情報しか私は知りませんでした。今回、磯田先生からお話を伺えるのが楽しみです。
磯田:はい!それでは、めくっていきましょう。慶応4年正月に鳥羽伏見の戦い(※1)が起きるわけでございますが、これは正に戦いが始まった日の日記です。冒頭に出てくるはずですから、ドキドキします。開けてみましょう。忠房さんが31歳の時です。
(※1)戊辰戦争の発端となった、 新政府軍と旧幕府軍の戦い。
両軍は慶応4(1868)年1月3日に京都郊外の鳥羽、伏見で衝突し、新政府軍が勝利した。
磯田:お正月まず、沐浴をして鳥が鳴くと四方拝(※2)をするというところから始まります。
近衞:陛下は、現在も宮中で四方拝をなさっていますが、幕末の近衞家でもしていたのですね...。興味深いです。
(※2)四方拝:一月一日の早朝に新年の豊作と無病息災を祈り、天地四方の神様を拝する儀式。
磯田:日記から色んなことがわかりますね。さて、元日も二日も何も起きていませんが、三日に...起きました!
神様を拝んで、家来たちに一通り扇子を遣わした時でした。「一伏見辺戦争ニ付入夜鴨社司林出雲守宅立退ク」伏見で戦争になったので、夜に入り、賀茂社神官の林出雲守の家に立退くと書いてありますから、恐らくこれは京都が燃える可能性があると見て、御所を出たわけですね。
それで翌日にはさらに詳しい情報が入ってきます。現代語訳します。「伏見淀鳥羽の辺で大合戦との由」「姫君など同伴し岩倉村(※3)の実相院へ立退く」と書いてあります。
近衞家では、以前から危なくなると大切なものを岩倉村へ持っていって難を避けるのが慣例になっていましたから、今回もそれに従ったのでしょう。そして、「岩倉に逗留五日」。
(※3)岩倉は周囲を山々に囲まれた盆地で、京都御所から徒歩約1時間半で行けるため、古くから皇族や貴族の別荘や療養地として重宝されていた。
近衞:岩倉のお寺さんにお世話になっていたということですね。
磯田:ええ、実相院にずっと泊まっていらしたようですね。岩倉具視(1825-1883)とは動きが正反対です。岩倉具視は王政復古クーデター以来、岩倉村から御所へ入って行って、この徳川との戦争を強引にやる構えです。その意気たるや恐ろしいものです。西郷隆盛書状には「岩(倉)卿は如何にも跡に御踏止り、弾丸・矢石を犯し、十分、御戦闘のつもり」とあります。近衞家の当主は「御堂関白記」はじめ御代々の記録や典籍・御宝物をお守りにならないといけない。それで岩倉へ行かれる。動線のベクトルが対照的です。
九日になると、大阪城が燃えました。「難波城今朝焼失の由」と書かれています。前日、岩倉にて、坊官、諸大名、近習などに面会したとも書いてあります。岩倉村でみんなと会って、それで九日の朝、大阪方面の空を見上げると、さあ、煙が見えたかどうか知りませんけれど、この書き方からすれば大阪城が燃えた「由」と書いてあるので、炎上の火や煙は実見して居られず伝聞でしょう。
近衞:なるほどね。